昭和42年05月26日 朝の御理解



 これは信心だけの事ではありますまい。何事にでも力の入れ所というのが、ここはと言う所に、間違いのない所に力を入れる所と、例えていうなら、私はどっちかと言うと綺麗好みの方です。綺麗好きなんです。ですから何時もほうきを持ったり、雑巾を持ったり部屋をきちっと片付けたりしておらなければ気分が悪い方なんです。ですから私も本当にそれを思う時があるのですよね。
 もう人に言う事はいらん。自分でほうきを持ったり勿論自分もそりゃ、奉仕の時間は別としてもあちらへ下がらせて頂いとる時なんか、まあ退屈を感じる時すらあるのですからそういう時には、まあこそこそ庭にでも降りて草をむしったり水をやったり、ほうきを持ったり、雑巾を当ててみたりそういう様な事がまあ、私は好きでもありますし動いた方が楽なんですけれども是はどういうもんか、この私が例えばそう言う風にほうきを持とうとしたり、雑巾を持とうとしたり致しますとすぐ良くない事がある。
 頭を打ったり、足をけつまずいたり、先日も私、始めて庭に水を降ろうと思うて、ホースを出した途端にその中に、私が一番嫌いな奴が入っておったりと、いう様な事でですね。とにかくその、そう言う事を、させまいさせまい、とする働きを感じるです。ですからまあ、皆んなが私を先生または、親先生と、こう言うて下さるから、まあ、親先生がそう言う事されたんじゃ、親先生の貫録が関わる、貫録に。だから神様は、させなさらんのだろうかと思うのですけれども。
 決してそんな事じゃないですね。私でも、ま、たまにほうきでも握っとくと、皆が「先生良かです。私がします。先生はわきます」と言うてほうきを取られるんですが。その私にさせまいとするというのが、そのそういう働きでもまあ、私が偉くなったからと、そういうこっちゃないようですね。いわゆるもっと、力の入れ所が有りはせんかと言う事が、神様の願いの様に思います。
 その人その人に、そのひとつの役割と言うのがある。私共も、いわゆる、信者時代に親教会におかげを頂いておる時、まあ、本当に御用と言うたらもう、一切自分の不得手な事でありましても、もうどの様な御用でもお使いまわし頂く事が有り難いと思い、まあいうなら先生がおられる時代は、御結界の奉仕もさして頂いた。さあ、御月例祭といや、神饌の御用もさせて頂いた。
 御神米までさせて頂いた。信者の時代に。かと言って今度は外の庭の草むしりもさせて頂いた。どぶさらいもさせて頂いた。大掃除と言う時には、私が行っとらん時はなかったし。まあ、いうならどの様な御用にでもそれかというてそんならさあ、教会に何か事があった時の場合でも。さあ、お金で解決せなければならない時には、お金で御用させて頂くと言う事にも。ま、人後におちなかった積りである。
 まどの様な御用にでもお使い回しを頂いた訳である。そういう所を一遍通っておるから現在ではあれもせんでも良い、是もせんでも良いというのではない。私はよく思うんですけれども、人間には趣味とか趣向というのがあります。まあ例えて言うなら若い時にカメラならカメラの道楽をする、してまあ色々写真機については詳しく段々それをまあ、品の良い道楽ですけれどもそれが20代でも30代でも何時も私は、カメラをいじくり回すのが好きだというのが、50までも60までも続いたらおかしいと思うね。
 それぞれまあ、趣味はありますけれども、それは年を取っていくに従って、思考力というか、自分の内容が高められ、豊かになって行くに従って、随分若い時分に思いよった。私は人間が少し軟弱に出来ておりますから、遊芸が好きじゃった。三味線を引いたり、踊りを踊ったりする事が好きであった。まあ踊りなんかは、年取って踊れないかも知れんけれども、三味線なんかは年を取ってもいうなら引ける事。
 まあ、三味線は稽古をしときゃ、何時まっでん楽しまれると云う様な考えを持っておったけれども、何十年経ってから今日、今三味線を握ってみようとも思わない。引いてみようとも思わない。それは矢張り、私の内容が変わっておるからなんですよね。私がそんなら50にでもなってからやっぱり私の二十時代なんかむしゃくしゃしよると、三味線でも引きよるとそれが直る位に好きだった。私が今、もやもやする事があるけん、三味線でも引いてからしてその、私がその。
 それを紛らかせ様ともやもやから、私は三味線を引いて、そこから逃れ様と云う様な事では、二十代から、何にも進んでいない事になるんです。若い時の趣味は趣味、道楽は道楽。何でもその趣味も、道楽ももっともっと高尚なもの。高尚なもの。その高尚なものから高尚なものへ、進んで行かなければならん。と私は思うのです。お茶をたしなむと。だんだん良いお茶ほどおいしい。けれどもそのおいしいお茶を、その美味しいものを追求して行くと言う事はです。
 結局私は思うのに、結局白湯の味が分かる様にならなければ駄目だと言う事。白湯なんかというのは、坊さん臭いと言うて白湯なんか若い時は飲まなかったけれど、この頃お茶がなかったら白湯でもいい。しかもその白湯の味わいというのが、少し分かって来た様な気がする。一つの事を味わうというてもそうである。変わっていかねばならん。でなかったら向上しとると言えない。その向上して行くと言う事はです。
 矢張り神様は、何時も願ってあると言う事です。這えば立て立てば歩め、それが親心なんです。私から雑巾を取り上げたり、ほうきを取り上げたり、いや、そう言う事をしてはいけないと、言わんばかりに。頭を打ったり、足を蹴つまずいたりするということが、もう私が偉くなったから、そう言う事はさせんというのではなくて、その事位の事ではない。それ以上の事があろうがと、言う事であろうと思うのです。それ以上の事が、私を楽をさせる為ではない。
 楽というそこんところが私共は分かって行くと同時に私共の内容が高められて行くと言う事をです。自分の一つの高められて行くというか、そこんところの度合いと言う物を知っていかなければならないと思う。神様はその事よりももっと素晴らしい、私は、ある教会の総代さんの言われるのを聞いて、当時成程と思うた事がある。ちゃんと紋付き袴を着けて、そして御大祭の言わば、御準備におおわらわである。総代さんであれば。そして、その履物預かるでも、なんでも総代さん方がなさる。
総代さん方に履物を預かって貰うちゃ、気の毒なと。と皆んなが思う位にま、実意丁寧に総代さんがさなるという話を聞いて、はあ、成程だなと思ったけれど、果たしてそれでいいだろうか。総代さんには、総代さんの御用がある。いうならば、青年会やら、学生会の方達の御用まで自分が取ってしまって、総代の御用が疎かに成る様ではいけない。成程いかにもその事が素晴らしい事の様である。私も夕方降りて、もう誰に言う事はいらん。自分で水を掛けたり、草を取ったり。 
 自分も楽なんですけれども、神様がそれを許されないと言う所にです。神様がより大事な事があろうがと、私に言うておられるのである。私は、初めちょっとそういう感じがしないでもなかった。「ははあ、神様は私にそう言う事をさせなさらんとだな」というのは、楽をさせなさるとだなと言う風に思わんでもなかったのだけれども、最近それを思う事はです。楽をさせたいというのではない。
 それ以上の事をさせようとなさっておられると言う事なんだ。いわゆる這えば立てなんである。総代さんが何時までも履物を預かる様な事ではならない。というて、そんなら、履物預かりもした事もない総代さんは役に立たん。中々デリケートな所ですね。お便所掃除一つした事のない総代さんでは役に立たん。教会の隅から隅までに心を行渡らして、ね。其処ん所が、段々出来る様になったら、その事が出来る人を、自分の次ぎに作っていかなければならんというか、言わば木簡を渡していかなければならん。
 バトンタッチが出来なければ駄目。私はそう思うんです。ですからもうその人の、その事よりももっと大事な御用にでも使うて頂けるだけの内容というものが、又そういうお役に立たせて頂こうとする願いがなからなければいけん。もう形の事だけではなくて、目に見えない、祈りの世界に入っていかなければできん。例えば総代さんの事を申しましたが、さあ、総代さんの祈りにです。末梢神経に至るまで、お掃除をする人もある、下駄を預かる人もおる。便所の掃除をする人もある。お勝手で御用する人もある。
 それが、その人の祈りの中からです。そう言う物が、出来て来る様な私は、働きというものになって来なければならないと思う。もしそれが出来ないなら、そこに多いに反省させて頂く所もなからなければならない。神様は何時も絶えず私共の信心を見守っておって下さって。もうその事が出来る様になったら、もう次ぎの信心を求め給うのです。それですから、形の上にもそう言う風に、変わって来なければならない。
 一生懸命に事がなされると言うても同じ事柄に一生懸命になったんでは、それは、向上していない事になる。若い時の趣味や道楽が年を取ってからでも同じであるとするならば、あなたの内容は一つも高められていないと言う事になる。それはもう、若い時のもの、過去のもの、そして、年を取らせて頂いた値打ちというか、段々年を取って行くに従って、そういう例えば趣味道楽でも、高尚なものに変わって行かなければならない様に、信心の内容も同じ事が言える。
 そう言う所に、信心の進め方というか進んでいきよる状態と言う物を見極めてまいりますとです。自分の信心がはっきりして来る様になります。勿論思う事する事から変わって来なければなりません。ひとつの問題ひとつの事柄でも、1年前にはああ云う様な見方、考え方をしておったんですけれども、1年後にはこう言う風に思える様になった。私、今朝御神前に出らせて頂きましたら、ある事を願っておりましたら。
 あれは何という菩薩でしょうか。仏様でですね、こう、上の方から下の方をこんな風にしてから手をかざす様にして下をご覧になっておる仏様が御座いますですね。その仏様の事を頂くんですよ。そのいうなら手を降ろしておられる所にはです。それこそ何という汚い事をするじゃろうか。何と小汚い事をするじゃろうか。もう様々なものが下界に見えて来る訳なんです。けれどもそれこそ表情ひとつお変わりになられない。
 慈愛に満ちた、溢れる様な、お顔を持って下界をのぞいておられる。私はそういうおかげを頂きたいと思う。そういう風に向上して行きたいと思う。信心というのは、わが心が神に向かうのを信心と言うのだと。自分の心が段々、いわゆる、神に向かって行く。向上して行く。そこに、ものの見方、考え方というのが、完全に変わって来る様な、おかげを頂かせて貰うて、ま、それも是も、自分の祈りの圏内として受けている様な、おかげを頂きたいと思いますね。
   どうぞ。